Diary

2016年12月31日(土)

数直線上の悪夢

私たちは時間という概念にガチガチにしばられている。

いまがあって、「いま」の「先」には未来があり、「いま」の「後」には過去がある。

現在・過去・未来は地続きにがっちりと結ばれている。

ここに苦しみが生まれます。

しかし、もし、この現在・過去・未来の数直線が崩壊したらどうなるでしょう。

私は『法華経』により、その体験を垣間見ました。

未来に登場するはずの仏が、実は過去からずっと仏だったり、
過去の仏が未来の仏だったり・・・。

どの仏がどの時代に存在したかを見取り図にしたい欲望が生じますが、
もし、数直線上に仏の寿命を整理して理解してもそれは意味のないことだと思います。
それでは元も子もない。

私はただ『法華経』の中に登場する無限にも近い仏たちの出現を口をあんぐりして、眺めているだけです。

『法華経』って、それでいいと思うのです。
『法華経』は「読書体験」なのです。
知識の集積行為ではないのです。
まさにライブ感覚。

話を戻しますが、現在・過去・未来ががっちり手を結んでいる世界では、
私たちは過去を悔やみ、未来を憂い、「いま」のことなんて、まったく眼中にない状態にあります。

ほんとうは、私たちには「いま」しかないというのに。
過去のことを悔やんでいるのも「いま」、
未来のことを憂いているのも「いま」なのです。

「いま」「いま」「いま」、「いま」しかないのです。

『法華経』に釘付けになっていると、
おびただしい如来(仏)の出現で、
いつが過去だか、いつが未来だかがわからなくなります。

時間という数直線が崩壊するのです。
この数直線が崩壊するのは、はっきり言って快楽です。
過去にも未来にも心が泳いでいかなくなります。
過去や未来なんて、笑い飛ばせます。

そんなことも『法華経』の魅力の一つです。

2016年12月30日(金)

お釈迦様は人間にあらず!?

こんにちは。
みなさまよい1年を過ごされましたか。

ブログには、時折、書いていたのですが、
このHPがおろそかになっていたので、
そろそろ再開いたします。

今年は、八王子の萌え寺、了法寺のご住職との、
楽しい語らいが続きました。
住職のススメで、『法華経』を読み始めて、
今日、読了しました。

『法華経』については、ちらちらとブログに書いていましたが、
それをこちらのHPに移動して、書き進めていきたいと思っております。

それにしてもまー、『法華経』は諸経の王様と言われるぐらいのシロモノで、
一筋縄ではいきませぬ。
研究されている方や、この教えを実践されている方は、
星の数ほどいらっしゃり、まさにリスペクトの嵐なのですが、
ここでは、私なりの感想文みたいなものを書き連ねます。

えっと、えっと、何から話していいものやら・・・。

あまりにお話ししたいことが膨大です。

そこで、順番は、ばらばらになりますが、
以前に読んだホットなところから、まずご挨拶程度に。

お釈迦様はかつて王子様で、家族を捨てて出家し、
苦行の時期を経た後、深い瞑想により悟りを得た、
というのは、よく聞く話というか、
まあ、仏教史的な事実な訳ですが、
『法華経』ではお釈迦様自体がこれをなんと全否定されています。

人間の形をして、修行して、悟った、
というストーリーがないと、
おまえら、理解できないだろ、
だから方便としてそう言った、というのです。

お釈迦様は、未来永劫ただそこに存在しつづけていて、
その存在にははじまりも終わりもない、とのことです。

まさに、不生不滅です。

これを聞いて、解放感を感じませんか。

だって、出家したら、スーパーマンのように、
深い悟りを得た、希有なお方という、
お釈迦様人間説は、どうも腑に落ちない。
そんな人、いるわけないからです。

そして、お釈迦様には姿も形もなく、
この宇宙、『法華経』的に言うと、
無数の宇宙の中にいきわたる、
時空間を越えた「何か」であるほうが、
よっぽど納得がいくわけです。

「人間ブッダ」と考えると、
居心地が悪くなるわけです。

この娑婆世界を超越した、
時間と空間をぶっ飛ばした世界に、
永遠に存在するお方がおられるということは、
私にとっては大きな救いとなります。
ほんとに、涙が出るほど、震えます。

まあ、最初だからこれくらいにします。
来年から、ぼちぼち書いていくので、
応援よろしくお願い申し上げます。

2016年07月14日(木)

一人で生きること、夢から目覚めること

今日は、気にかけていた読者の方から、
うれしいメールをいただいたので、久々に更新します。

一人で生きること

長年、一緒に暮らしていた家族と離れ、一人で生きはじめてからけっこう時間がたちました。

夜ふけに、ひとりで、PCの前に座っていると、
夜というのは、実に長いものと実感します。

というと、孤独をかみしめているかのように聞こえますが、
私はいま、孤独ではありません。

一人でいるというのは、実に豊かなことだと思います。

人は一人で生まれ、一人で死んでいく。

人はあきらかに、孤独な存在なのです。
その事実をうやむやにして、生きることは、
一生、長い夢から起きないで、惰眠をむさぼることに等しい。

ブッダのことばに、「自灯明」という有名なことばがあります。

自分の明かりで生きて生きなさいと言った意味でしょうか。

私はこのことばの本当の意味がわかったようでわかっていなかった。

自我がなければ、自分の明かりも存在しない!?

私はよく自分の文章の中で、
「自分などない」「自我などない」と書いています。

「自灯明」などと言われても、
そもそも自我などないのだから、
自分の明かりなどを信じるのは、妄想のような気がしていたのです。

よく「自分を信じろ」などと言うけど、
自分なんて存在しないのだから、
信じる自分は存在しない、と考えたのです。

しかし、最近は、頼るものといえば、
自分を灯す明かりしかない、と考えるに至りました。

有名な禅のお坊さんが、
「自分の鼻で息をしろ」と言っていました。

いまなら、その言葉の意味がわかります。

自分の鼻で、きちんと生きている人が、
どれくらいいるでしょう。

つまり、人は環境に反応して、
自動操縦されたロボットのように操られて生きています。
おのれを呼吸に気づいている人はめったにいません。

自分のまっただ中を生き抜く。

これは少々、わかりにくく、
むずかしい考え方です。

「自分の鼻で息をしろ」というのは、
いつも自分に気づいていろ、ということであり、
もっといえば、この自分自身の存在に集中して、
最後には、自分自身のことも忘れてしまえと言うことです。

簡単に言ってしまうと、「無心」で生きろ、ということです。

ネットや娯楽などの「悪夢の洪水」から一瞬でも目覚めてみる

自分の明かりを頼りに生きろ、ということは、
実は、自分さえも忘れるぐらい、
無我夢中で生きろ、という意味にもつながります。

では、私たちがどうしたら、それが実現できるか、
まず最初の一歩は、自分自身を見つめられるように、
できるだけ孤独にいることです。

いまは、自分をごまかすネットや遊びが多すぎて、
人は孤独であるという、本質的なことを見逃しがちです。
ネットや遊びという長い長い夢の中に生きて、
自分に向き合う時間がないのです。

遊びや娯楽、友人、恋人などと、
ちょっと離れて、
あえて孤独になってみる、
そんな時間も無駄ではないのかもしれませんね。

2015年08月26日(水)

決定的な本に出会ってしまった

ものを書く。
自分の思考について、自分のアイデアについて書く・・・。

そのことが、本当に重要なのであろうか・・・。
そのことで、本当に自分を満たすことができるのだろうか・・・。

『仏教思想のゼロポイント』という素晴らしい本を書いた、
魚川祐司さんの翻訳した本が、ミャンマー仏教書ライブラリーというサイトから、
ダウンロードして読めます。

『自由への旅』
~ウィパッサナー瞑想、悟りへの地図~
ウ・ジョーティカ(Sayadaw U Jotika)著
魚川祐司訳

私はこの本をいま読んでいます。
あまりに愛おしいので、毎日、少しずつ読んでいます。

すべての行にものすごく大切なことがあふれています。

その中で、今日、はっとしたことを書きます。

著者が瞑想中に素晴らしいアイデアが浮かび、
これを人々に伝えて、啓蒙したいと思い立つシーンがあります。
彼の師匠はこれを禁止します。

「書いてはいけない。
瞑想の記録すら作ってはいけない」

それを書き留めた瞬間に、
瞑想はどこかに行ってしまうというのです。

瞑想は、生きたものであり、
これを記録することはできない。

「無常」についても同じです。
無常は感じ取るものであり、
本で学ぶものではない。

言葉になりませんでした。
私は仏教をみなさんに伝えると意気込みつつ、
何が語れたのかということを。

ヴィトゲンシュタインの言葉を思い出します。

「語りえぬものは、沈黙するほかない」。

しかし、瞑想は沈黙とも違います。
・・・と、言ってここで、瞑想について、語り出しても堂々巡りですね。。
そんな資格も到底ありません。

あさはかです。
知的興奮とか、そんなレベルではない、
なにかを感じ取れたような気がする夜です。

2015年08月19日(水)

離食について

おはようごさざいます。
しばらく、休眠していたブログを再開したいと思います。

私もいろいろ人生を蛇行していますが、
そろそろ、仏教のこと、瞑想のことなどについて、
自分の考えをまとめなければならない時期に差し掛かりました。

いくつかの実践について、これから書いていきますが、
いまの私のテーマの柱に「離食」というものがあります。

これは仏教用語で「離貪」という言葉からヒントを得たものです。
字面も似ていますね。

仏教には、いろいろな修行がありますが、
その中でも、「食」というものは、
けっこう大きなキーだと思っています。

なぜか。
食事は、煩悩と密接に関連しているからです。
「食」を自然と離れること。
貪りや渇愛から離れるには、
とても実践しやすく、効果も出やすいです。

そのへんのこと、書いていきます。

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