Diary

2016年12月31日(土)

『法華経』〜世界を裸眼で見るために

自分の眼前にそびえる大きな隆起は、本当に「山」なのか。
道元は考えた。

自分が見ている眼前の隆起は、本当に「山」という名称のものか。
いや、違う。その隆起は「山」という名称の指す山ではない。
そう道元は考えた、と思います。

名称というものは、実に便利ですが、錯覚を与えるものです。

目の前にアイドルがいたとします。
その人の名前は、山本彩さんだったとします。

この山本彩さんと目の前のアイドルは同一でしょうか。

名称というものは、非常に有効ですが、自分に誤解を与えるものです。

山本彩さんと目の前の山本彩さんは別物ですし、
極端な話をすれば、
目の前の山本彩さんですら、
本当にその人自身を私たちが認識しているかすら怪しいものです。

このように対象物のありのままを見透すことは非常に困難な作業です。

対象物の本質をすっかりと見透せるのは、仏さましかいないのです。
しかし、私たちはそれに近づくことができます。

対象物の本質そのもののことを、仏教では「真如」(しんにょ)と言います。
『法華経』では「実相」といいます。

この「実相」、つまりありのままの姿で世界を見透すことができると、
あらゆる苦悩から解放されると、仏さまになれるのです。
それは仏さまにしか、できませんが、
私たちはそれに近づくことができます。

私たちは、たくさんのフィルターを通して、世界を見ています。
そのフィルターは人それぞれ。
どうして人それぞれのフィルターができるかというと、
それは過去の記憶や体験から作られています。

ですから、私たちは現実を見ている錯覚をしていますが、
実は「過去」を見ているだけなのです。

私はかつて『ロックンロール般若心経 〜世界を裸眼で見るレッスン』という本を書きました。
この本はその副題の「裸眼で見る」というところがキモなのです。
「裸眼で見る」とは「実相」を見ることです。

ところが、先ほどの過去の記憶や体験に基づいたフィルターのせいで目が曇ってしまっているのです。

じゃ、どうしたらいいのか。。

それがわかっていたら、私も悟りを開いていることでしょう。

この娑婆世界(現実世界)に生きいている以上、
苦しみや悲しみがついてまわります。
そのたびに私たちはまた1枚、フィルターを作り出し、目に重ねます。
私もたくさんのフィルターをつけたり、時折、ちょっと外したりして暮らしています。

いま、なぜ、『法華経』を読むのか。
それはこのフィルターを1枚でも多く外したいと願っているからです。
その一心なのです。

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