Diary

2016年12月31日(土)

迷いがあるから人は愛せる

一念不生(いちねんふしょう)。

仏教にはそんな言葉があります。
心に一点の迷いもない状態をいいます。

まさに悟りの境地ともいえますが、
一点も迷いがないということは石ころなどの物と同じようになれ、ともとれます。

確かに、禅の世界などでは「心木石のごとし」みたいな表現を使うこともあります。
ある意味では非常に心地よい心境です。

自然はありまののに動いているだけです。
石ころも雑草も木もみんな自然の摂理の中を生きています。
人間だけが、この摂理に反して生きているわけです。
自然に抗い、宇宙の前でじたばたしてもがいているのであります。

迷いや妄想を沈め、心を安定されることは大切です。
一念不生は生きていく上で、人生の場で修行としては大切な境地です。

しかし、これを透徹させていけば、本当に石ころになってしまい、
極度のニヒリズムに陥る危険があります。

ここで、「大悲」という言葉を紹介しましょう。
本当に石ころになってしまったら、人は人である意味もありません。
『法華経』では、一人で教えを聞いて修行する人を「声聞」(しょうもん)と言います。
声聞だって、われわれ凡人に比べれば相当意識の高い人ですが、
一人で悟りを得たとして、石ころ化していくのでは、なんだかさみしくないですか。
「大悲」とは、生きとし生けるものの苦を救う、仏や菩薩(ぼさつ)の大きな慈悲のことです。
この力が宇宙に発揮することを「悲が動く」などと表現します。

草、花、虫、木などのこの宇宙に存在する物すべてが、
それぞれの生命の輝きを大きく放って、響き合うとき、
「悲が動く」というのです。

『法華経』はこうした小さきもの、弱きものが、互いに生命を呼応し合って、
世界の実相、つまりありのままに輝き、
みんなで世界をつくる、みんなで救われていくことを悟りの最終段階に置いていると考えられます。

私もさきほど述べた「心木石のごとし」を最終的なゴールと思っていた時期もありました。
自分さえ救われれば、結局、世界なんてどうでもいいじゃん、みたいな。
若い人には、そういう感覚から仏教にニート的な好感を持つ人も多いと聞いています。
よくわかるし、私もそうでしたから、そういう観点を持った人は、
持たない人より豊かだと思います。

でも、その先に思いも寄らなかったゴールを提示してくれたのが、
『法華経』というやつです。あくまでも私の場合ですが。

迷いのない心は理想です。
しかし、迷っているからこそ見えてくる、
「大悲」という大きな門をくぐるのも、格別な悦びともいえる気がします。

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