Diary

2017年05月13日(土)

「意図する罠」を抜ける

私は「やれない、やらない人間」

昨夜、私は友人にこう言われました。
「きみはもっとやれる人間だよ」と。

いわゆる「励まし」ととってよいだろう。
そのよう気持ちを私に向けてくれたことに感謝する。

しかし、一方で、深い孤独を味わった。
なぜなら、私は「もっとやれない人間」を目指しているからである。

それは他人に理解してもらうことはまず難しい。
だけど、もし自分と同じ思いをいだく人がいるなら、なんらかの心のアクセスができると思い、少し書いている。

「もっとやれる」の意味を考える

「もっとやれる人間」とは、つまりどんな人間か。
それは「この時代の中、2017年のいまの日本の現状の中で、成功を収めること」だろう。
この時代のノリに合わせて、みんなの賞賛を得ることだろう。
この時代に同期、リンクして、社会的あるいは、経済的に成果を得ることだろう。

もっと、もっと。もっと、もっと。

40代で人生を降りる

私は持病が30歳頃、発病して、社会復帰したのは40歳ぐらいだった。
病気前は、バブル時代で、私も時代の中でスイスイと泳いでいた。
いわゆる「イケイケドンドン」の時代である。
その後、統合失調症という病に落ち、妄想と幻覚の中で、生き地獄を見た。

山の中の治療施設に半強制的にいたこともあった。

その後も、後遺症的な重いうつ病に苦しんだ。
そこから社会へと降りてきたとき、私はとまどった。
見える風景がそれまでとは、まったく違った。

しかし、それでも私はそこで「夢をもう一度」とばかりに、イケイケなノリを取り戻そうと躍起になった。

ブラック企業を転々として、もう一旗上げることに全力を傾けた。
そして、中堅出版社に潜り込んで、業界人的な生活を再現しようとした。

しかし、何もできなかった。

勤める会社の規模、収入、ステータス、すべてがスケールダウンしていたし、昔のキレや瞬発力はすでに衰えていた。

そして、あるとき、ふと「何か」に気づき、都心の生活を離れた。
高感度な人間、トレンドをつかんだ人間、勝つことにこだわる人間・・・。
周囲の人は言った。「まだ諦める歳ではないよ、これからだよ」と。

「意図する罠」から逃げ出す

励ましの意図はわかる、しかし、それは励ましどころか、私を傷つけた。
私がいわゆる世間的に「人生を降りた」のは、やむを得ない理由によるところが多い。
収入減、ステータスの低下、家族との不和・・・世間的に見れば、同情されそうなことはたくさんある。たしかに「かわいそうな」人間であり、よくある「落ち目」な人生である。

しかし、私はいま、人生の中で、かなり自由に生きることができている。

もしかしたら、いちばん自由かもしれない。

なんで自由なのか、それはすべてを捨てて手ぶらになったから、と言ったら、たいへんわかりやすいが、そんなイージーな作業ではなかった。

私は「意図する罠」に陥らなくなったのだ。

「意図する」と文脈の牢獄へ堕ちる

少しややこしい話だが、つきあってもらいたい。
わかりやすい例をあげよう。

Twitterなどで、ウケを意識した狙い澄ましたツイートには、「いいね」がつく。
投稿者は自分の狙い通りの反応に満足する。「いいね」を押した人も、自分は時代にリンクしていると安心し、自己満足を得る。

この互助会的なシステムは、いまの時代を象徴している。

自己承認欲求ははっきり言って見苦しいものだし、みんなそれに薄々気づいているのに(気づいていない人もいる)、とりあえず、自分をごまかして、安易に「いいね」を押し続ける、そのことで自分もつながっていて、ひとまずは自分の立ち位置も安泰となる。まあ、もちつもたれつだ。

しかし、その互助会システムに入ることで失うものの大きさには多くの人が無意識的だ。

世の中の「意図しているもの」はこの高度資本主義社会の日本の、そして東京中心、電通などの広告代理店による「意図」に期せずして、乗っかろうという、安易な反応だ。

もはや日本人は電通なしには生きられない。
あなたの消費活動、いや、思考やマインドは、骨の髄から、広告にのっとられている。
こんなことを言えば、「ステレオタイプな発言だ」と非難されそうだが、非難されても私は言いたい。あなたは骨抜きだと。

トレンドという牢獄の中でもがいているだけだ。

みんな1週間もすれば忘れてしまうことに夢中になっている。
みんな1週間もすれば忘れてしまう人脈を失うことに不安をあらわにする。

孤独か、ひとりは孤独か。
つながりたいか、ゆるくつながりたいか。

私は小さなマスコミ村から降りたし、この広告世界から離れること、いや正確に言えば、離れる意志を持つことで、いくばくかの解放感を得た。
この東京という広告村はただひとつの文脈、コンテクストでしかない。
それを信じ切って、終わってしまった幻想を追う人、それに追従する人。

「意図」のないところに光は自然と降ってくる

少し仏教の話をしたい。

親鸞もまた「意図すること」に警戒心をもっていた。
というより、「意図」から逃れるために彼の信仰があったといってよい。
彼は「意図」のことを「はからい」といった。

「はかりごと」の「はからい」だ。

人生にウケを狙ってネタ化、演出するのがいまの気分だと厚顔無恥なことを言う人がいるが、そういう人を親鸞なら「はからい猛き人」と呼ぶかもしれない。
親鸞はいう、結局、人が救われるのは「はからい」をすべて捨てたときだと。

「意図」があるうちは、救いの光は降りてこないと。

私にも、思い当たる節がある。
プライドで凝り固まっていた若い頃、病気になったら、周囲の人たちは手のひら返しで私に冷たくなった。
私はまた信頼と人気を得るために、あくせくと時代にしがみついた。
しかし、それに挫折して、ある日、路上で、「助けてください」と叫んだことがあった。
誰かに対して言った言葉ではない。心の中の叫びを声にしただけである。

そのとき、光が降りてきた。

自分が救われるには、この傲慢な自我を放棄するほかはない、と。

立ち止まって泣くことを許す

そろそろこの文をまとめたい。
私たちは一見、人生というゲレンデをスイスイ滑っていると錯覚する。

しかし、それは仮の姿だ。

人は無意識の世界でみんな泣いている。
しかし、泣いていることすら気づいていない。
そのうちに、さまざまな「意図」というクレバスに落ち、抜け出せなくなる。
美しく見えるゲレンデのそこかしこに、クレバスはぱっくりと口をあけている。

ほとんどの人は顔では笑顔で、無意識には泣き叫びながら、人生というゲレンデを下っていく。
降りていったあとの風景は、誰にも見えない。
「意図」にとりつかれている間は。

何も見えない。

泣いていることすら気づかない。

私は立ち止まって泣く道を選びたい。

だからこの「村」から旅立ちたい。

2017年01月08日(日)

マルチユニバースと輪廻のふかーいカンケイ

『法華経』には無数の宇宙が存在していると書かれているような気がします。
いわゆるマルチユニバースというやつですね。

自分が生きている世界はひとつの宇宙です。
この宇宙のほかに宇宙が無数にあるというのです。

信じられないような気がします。

でも、この仕組みが少しわかったような気がします。

たとえば、私が今日、宝くじが当たったとします。
これは私が選び取った「現実」、つまり私が選び取ったひとつの「宇宙」です。
しかし、今日、私は今日、宝くじを買わなかったとします。
これは私が選び取った別の「現実」、つまり私が選び取った別の「宇宙」です。

そういう無数の選択肢が存在します。
ですから、宇宙の可能性というやつは無限大なのです。

しかし、私はひとつの宇宙しか選べないと、考えるでしょう。
私が宝くじに当たらなかったら、大金持ちにならない人生が繰り広げられます。
しかも、この人生のストーリーは結末まで決まっています。
つまり未来は確定しているということです。

世界には無限の可能性があるはずなのに、
もし私がこの宝くじが語らない貧乏人のストーリーに、
不満を持ったり、疑惑を持ったりすると、
本来、宇宙は無限大の可能性があるはずなのに、
そのストーリーの中に落ちて行ってしまいます。
要するに、そのストーリーの中に埋没してしまうのです。
そのストーリーの牢獄に閉じ込められてしまうのです。

つまり、マルチユニバースの世界を渡り歩いて、生きられなくなってしまうのです。

これが、「輪廻の輪の中に落ちる」ということです。
輪廻の中に落ちるというのは、
ひとつの宇宙の中で、
本当の宇宙を見られずに、もがき苦しんで死んでいくということなのです。

お釈迦様はこの「輪廻の輪」から超越しました。
それは、そのストーリーに陥らずに、
宇宙の可能性の無限大であることに気づいたということです。
人はそれを「悟り」と呼ぶのかもしれません。

宇宙の可能性が無限大であることを、
はらわたから了解することが、
つまり、自由に生きるということです。

宇宙に対して、疑念を抱くのはとても恐ろしいことです。
宇宙は万能です。
この万能な宇宙を賛美することから、
私たちの人生は変わっていくはずです。

2017年01月05日(木)

最高にクールなデクノボー

「なんぴとも過去や未来を失うことはできない。

人が失いうるものは現在だけなのである」

ローマの哲人皇帝・マルクス・アウレーリウスはいいます。

私たちは過去を失うことができるでしょうか。
過去は単なる記憶の集積です。
過ぎ去ってしまったものをもう一度、失うことはできません。
失っているとしたら、過去を悔やんで嘆いている「現在」の時間そのものです。

私たちは未来を失うことができるでしょうか。
未来とは単なる不安と妄想です。
訪れていないものをもう一度、失うことはできません。
失っているとしたら、未来について思いを巡らして震えている「現在」の時間そのものです。

過去や未来は「思い」でしかないのです。
しかも、「現在」という、私たちがたったひとつ持っている時空間を浪費して。

私たちはほとんどの時間、過去か未来のことを考えて生きています。
よく自分を観察してみるとわかります。

あなたはいま、何を考えていますか。

失ってしまった恋人のことですか。
未来のお金の心配ですか。

私たちは人間です。
過去や未来に囚われて生きています。
私たちは過去や未来の「奴隷」です。

そんな奴隷が、一瞬、牢屋を脱獄できる時間があります。
それが「現在」です。

あなたが恋人と笑い合っている時間。
子どもと戯れている時間。
スポーツや趣味に熱中している時間。

それはあなたにとって、唯一、
過去や未来から自由に解き放たれる瞬間です。
それを仏教では、「無心」と呼びます。

人が幸せに生きるとは、
つまるところ、この「無心」を体験し続けることです。
それを禅の世界では、
「いまにしがみついていろ」などと言います。
瞑想も「いまにしがみつく」ためのレッスンの一つでしょう。

かっこわるくてもいい。
バカだと言われてもいい。

いまだけにみっともないぐらいにへばりついている人間でありたい。
他人から見れば、愚直にみえるかもしれない。
「デクノボー」と笑われるかもしれない。
でも、そんな「デクノボー」がいま、
最高にクールに見えるのです。

2016年12月31日(土)

『法華経』〜世界を裸眼で見るために

自分の眼前にそびえる大きな隆起は、本当に「山」なのか。
道元は考えた。

自分が見ている眼前の隆起は、本当に「山」という名称のものか。
いや、違う。その隆起は「山」という名称の指す山ではない。
そう道元は考えた、と思います。

名称というものは、実に便利ですが、錯覚を与えるものです。

目の前にアイドルがいたとします。
その人の名前は、山本彩さんだったとします。

この山本彩さんと目の前のアイドルは同一でしょうか。

名称というものは、非常に有効ですが、自分に誤解を与えるものです。

山本彩さんと目の前の山本彩さんは別物ですし、
極端な話をすれば、
目の前の山本彩さんですら、
本当にその人自身を私たちが認識しているかすら怪しいものです。

このように対象物のありのままを見透すことは非常に困難な作業です。

対象物の本質をすっかりと見透せるのは、仏さましかいないのです。
しかし、私たちはそれに近づくことができます。

対象物の本質そのもののことを、仏教では「真如」(しんにょ)と言います。
『法華経』では「実相」といいます。

この「実相」、つまりありのままの姿で世界を見透すことができると、
あらゆる苦悩から解放されると、仏さまになれるのです。
それは仏さまにしか、できませんが、
私たちはそれに近づくことができます。

私たちは、たくさんのフィルターを通して、世界を見ています。
そのフィルターは人それぞれ。
どうして人それぞれのフィルターができるかというと、
それは過去の記憶や体験から作られています。

ですから、私たちは現実を見ている錯覚をしていますが、
実は「過去」を見ているだけなのです。

私はかつて『ロックンロール般若心経 〜世界を裸眼で見るレッスン』という本を書きました。
この本はその副題の「裸眼で見る」というところがキモなのです。
「裸眼で見る」とは「実相」を見ることです。

ところが、先ほどの過去の記憶や体験に基づいたフィルターのせいで目が曇ってしまっているのです。

じゃ、どうしたらいいのか。。

それがわかっていたら、私も悟りを開いていることでしょう。

この娑婆世界(現実世界)に生きいている以上、
苦しみや悲しみがついてまわります。
そのたびに私たちはまた1枚、フィルターを作り出し、目に重ねます。
私もたくさんのフィルターをつけたり、時折、ちょっと外したりして暮らしています。

いま、なぜ、『法華経』を読むのか。
それはこのフィルターを1枚でも多く外したいと願っているからです。
その一心なのです。

2016年12月31日(土)

迷いがあるから人は愛せる

一念不生(いちねんふしょう)。

仏教にはそんな言葉があります。
心に一点の迷いもない状態をいいます。

まさに悟りの境地ともいえますが、
一点も迷いがないということは石ころなどの物と同じようになれ、ともとれます。

確かに、禅の世界などでは「心木石のごとし」みたいな表現を使うこともあります。
ある意味では非常に心地よい心境です。

自然はありまののに動いているだけです。
石ころも雑草も木もみんな自然の摂理の中を生きています。
人間だけが、この摂理に反して生きているわけです。
自然に抗い、宇宙の前でじたばたしてもがいているのであります。

迷いや妄想を沈め、心を安定されることは大切です。
一念不生は生きていく上で、人生の場で修行としては大切な境地です。

しかし、これを透徹させていけば、本当に石ころになってしまい、
極度のニヒリズムに陥る危険があります。

ここで、「大悲」という言葉を紹介しましょう。
本当に石ころになってしまったら、人は人である意味もありません。
『法華経』では、一人で教えを聞いて修行する人を「声聞」(しょうもん)と言います。
声聞だって、われわれ凡人に比べれば相当意識の高い人ですが、
一人で悟りを得たとして、石ころ化していくのでは、なんだかさみしくないですか。
「大悲」とは、生きとし生けるものの苦を救う、仏や菩薩(ぼさつ)の大きな慈悲のことです。
この力が宇宙に発揮することを「悲が動く」などと表現します。

草、花、虫、木などのこの宇宙に存在する物すべてが、
それぞれの生命の輝きを大きく放って、響き合うとき、
「悲が動く」というのです。

『法華経』はこうした小さきもの、弱きものが、互いに生命を呼応し合って、
世界の実相、つまりありのままに輝き、
みんなで世界をつくる、みんなで救われていくことを悟りの最終段階に置いていると考えられます。

私もさきほど述べた「心木石のごとし」を最終的なゴールと思っていた時期もありました。
自分さえ救われれば、結局、世界なんてどうでもいいじゃん、みたいな。
若い人には、そういう感覚から仏教にニート的な好感を持つ人も多いと聞いています。
よくわかるし、私もそうでしたから、そういう観点を持った人は、
持たない人より豊かだと思います。

でも、その先に思いも寄らなかったゴールを提示してくれたのが、
『法華経』というやつです。あくまでも私の場合ですが。

迷いのない心は理想です。
しかし、迷っているからこそ見えてくる、
「大悲」という大きな門をくぐるのも、格別な悦びともいえる気がします。

1 / 2012345

Archives

Copyright (c) 2012 NIKAIDO TAKERU. All rights Reserved.