2016年07月14日(木)
今日は、気にかけていた読者の方から、
うれしいメールをいただいたので、久々に更新します。
長年、一緒に暮らしていた家族と離れ、一人で生きはじめてからけっこう時間がたちました。
夜ふけに、ひとりで、PCの前に座っていると、
夜というのは、実に長いものと実感します。
というと、孤独をかみしめているかのように聞こえますが、
私はいま、孤独ではありません。
一人でいるというのは、実に豊かなことだと思います。
人は一人で生まれ、一人で死んでいく。
人はあきらかに、孤独な存在なのです。
その事実をうやむやにして、生きることは、
一生、長い夢から起きないで、惰眠をむさぼることに等しい。
ブッダのことばに、「自灯明」という有名なことばがあります。
自分の明かりで生きて生きなさいと言った意味でしょうか。
私はこのことばの本当の意味がわかったようでわかっていなかった。
私はよく自分の文章の中で、
「自分などない」「自我などない」と書いています。
「自灯明」などと言われても、
そもそも自我などないのだから、
自分の明かりなどを信じるのは、妄想のような気がしていたのです。
よく「自分を信じろ」などと言うけど、
自分なんて存在しないのだから、
信じる自分は存在しない、と考えたのです。
しかし、最近は、頼るものといえば、
自分を灯す明かりしかない、と考えるに至りました。
有名な禅のお坊さんが、
「自分の鼻で息をしろ」と言っていました。
いまなら、その言葉の意味がわかります。
自分の鼻で、きちんと生きている人が、
どれくらいいるでしょう。
つまり、人は環境に反応して、
自動操縦されたロボットのように操られて生きています。
おのれを呼吸に気づいている人はめったにいません。
自分のまっただ中を生き抜く。
これは少々、わかりにくく、
むずかしい考え方です。
「自分の鼻で息をしろ」というのは、
いつも自分に気づいていろ、ということであり、
もっといえば、この自分自身の存在に集中して、
最後には、自分自身のことも忘れてしまえと言うことです。
簡単に言ってしまうと、「無心」で生きろ、ということです。
自分の明かりを頼りに生きろ、ということは、
実は、自分さえも忘れるぐらい、
無我夢中で生きろ、という意味にもつながります。
では、私たちがどうしたら、それが実現できるか、
まず最初の一歩は、自分自身を見つめられるように、
できるだけ孤独にいることです。
いまは、自分をごまかすネットや遊びが多すぎて、
人は孤独であるという、本質的なことを見逃しがちです。
ネットや遊びという長い長い夢の中に生きて、
自分に向き合う時間がないのです。
遊びや娯楽、友人、恋人などと、
ちょっと離れて、
あえて孤独になってみる、
そんな時間も無駄ではないのかもしれませんね。